どうも!渋谷でタロットリーディングをご案内してます、タロットおじさんことつねやすです。
以前、FaceBookに載せた記事なんですが、こちらにも掲載しておこうと思いまして、持って来ました。是非ご覧いただけたら幸いです。
友人から投げかけられた問い。
「私たちには必ず必要なものは与えられている」
「常に最善が起きている」
…だがしかし、何故こんなに不安なんだろう?
何故?
友人は茶番と笑ってましたが…(;^ω^)
で、ちょっと時間軸が前後しますが、遡る事その前日の夜にたまたまノートワークに取り組んでいて、自分の中に潜むあれやこれやを炙り出す作業をしていたんです。
その時に炙り出していたのも「不安の素」。あくまで私の中での不安の素ではあるのだけど、案外漠然とした不安に付き纏われている人は多いと思う。いや現在の日本人は案外不安がデフォルトになってるかもしれない。
前日の夜/今日の夜と同じテーマであれこれ考える事になったのは、これが今の自分にとって必然でありすべき事?
今向き合って現時点でって事でも構わないから、一応の回答を導いておく事を求められてると考えると、ちゃんと必要なものが与えられている瞬間を体験してるのか?
多分そうだな。
昔の自分は、自分の夢だったり日々の生活を賄うための仕事に囚われて、とりあえず目の前にある”やらなきゃいけない(と思い込んでる)”事に振り回されていて、常に緊張した状態。
当然の如く周囲や自分の身に起きてる事を冷静に判断したり分析したりする余裕なんか全くなくてただ目の前になるやらなきゃいけないと思いこんでいる事がどうにかなれば幸せになれるってただひたすらに我慢をする日々だった。
やりたい事だと思ってやってたバンドマン活動だって結局微塵もやりたいことなんか出来ずにひたすらフラストレーションを溜め込むだけだった。
それでも我慢して全てが片付いたら幸せになれるかもしれないって結構本気で思っていた。
結論。我慢してては幸せにはなれません。
何を幸せとするのかにも依るのでしょうけど、心身ともにギリギリのところで踏ん張り続けて我慢を続けることで脳内ホルモンを垂れ流すほどの変態にはなり切れなかったので、少なくとも私にとっては我慢は幸せの道には繋がっていなかった訳だ。
で、現在。
全く我慢してない訳ではないけれど、当時の自分と比べたら格段に楽しく気分良く幸せを感じながら生きていられる。
職場やプライベートでの人間関係が大きく変化した事もあるけれど、そもそも自分の気の持ちようが大きく変化している事が大きいのではないかと思っている。
気の持ちよう…我慢をしなくなった。こう書くと我がままで傍若無人な振る舞いをしているのか?と思われそうだけど、そんな事じゃなくて、自分が我慢しなきゃ繋がれない人達とは関わらないようになっただけかな?
そもそもなんで我慢してたのか?
その場の人間関係を壊したくなかった。壊したくなかったというよりは壊したら損だと思っていたからかもしれない。
壊したら損…お給料もらえなくなっちゃうとか、バンド活動をまた一からやり直さなきゃいけないとか、今別れちゃったら次の出会いがいつあるか分からないからとか。
我慢の正体って私の場合は打算的な思い込みだったみたいだ。
これらの思い込みから来る我慢をしないと損しそうだと感じてしまう関わりから離れたら、びっくりするほど気が楽になって気分良く過ごせるようになって、冒頭の「必要なものは与えられ、常に最善が起きている」事に気がつけるようになってきたんじゃないかと。
勿論まだ全てを受け取れている訳じゃないとも思っている。根拠はないけどw
まとめます。
「必要なものは与えられ、常に最善が起きている」のに何故不安なんだ?
無用な我慢を続ける事で発生する過度のストレスなどが原因となり、本来与えられている必要なものや常に起きる最善な出来事に気がつけていないから不安なんじゃなかろうか?
それらに気がつけるようになる為には打算的な思惑から発生する我慢しなければいけない状況を一旦脇に寄せて、我慢しなければいけない人間関係からは距離をとる。
今回の結果を受けてしばらく自分を使って人体実験してみようかwww